私のオピニオン
尾木直樹

教育評論家、法政大学教授

「農業は、子どもの健全な成長に寄与する『原体験』を提供する」と強調する尾木さん。農業は食料供給だけでなく、教育的な視点からも極めて重要な機能を有していると「農の価値」を訴えています。

「人間性」が問われる時代です。農業体験が人間の成長に与える大切さを実感しています。

HQ(人間性指数)を高める農業体験

 脳科学や教育の分野では現在、HQ(人間性指数= Humanity Quotient)という概念が注目されています。言語、音楽、身体運動、社会性や感情など、人間生活に関わる知能全般を統括するのが、脳の「前頭連合野」という部分。HQはこの「前頭連合野」の知能であり、「人間らしさ」の指標とされています。かつてはIQ(Intelligence Quotient = 知能指数)やEQ(Emotional Intelligence Quotient =心の知能指数)が使われていましたが、これらに代わるものとされています。このHQを高めるのに非常に有効だと言われているのが、五感を通じて体験する「原体験」です。そして、農業・農村生活は、HQを高めるのに必要な原体験の宝庫と言えるでしょう。つまり、農業は食料供給の役割だけでなく、教育的な視点からも極めて重要な機能を持っているのです。
「原体験」には大きく分けると8つの領域があります。そのひとつ、「火」の体験は、例えば、たき火の熱さや煙の臭いなどを感じるといった体験です。また、「草」の体験は草笛で遊んだり、草刈りしたりといった体験。草むらに行くと、あの何とも言えない香りで胸いっぱいになりますよね。そのほか、「動物」や「石」、「水」、「木」、「土」の体験があります。最後のひとつ、「ゼロ体験」と呼ばれるものは、漆黒の闇や極端な寒さ、渇きなど人間の力ではどうにもできないような自然体験のこと。これらの「原体験」はいずれも、農村では日常生活を通して味わえます。
 子どもの幼少期から、IQを高めるような早期教育に力を入れる親御さんもたくさんいますが、私はあまりお勧めしません。全てが悪いわけではありませんが、早期教育ではたいてい脳の一部を鍛えているだけであって小学校高学年ころになると、他の子どもとの差はなくなっていくそうです。後々のことまで考えると、むしろその子どもは劣等感を抱いてしまう恐れもあります。乳幼児期というのは、日常生活の中で、子どもの発達段階に見合った素材を使って、その子の理解や思考の土台となる力をつけるようなアプローチをしてあげることが大切なんです。近年はいわゆる一流大学のIQが高い大学生が、考えられないような犯罪や不祥事を起こしたという報道も頻繁に目にしますが、学力ばかりに目を奪われ人間性を鍛える教育が後回しにされているのではと心配ですね。

農業や農村での体験が「基礎的な学力」に

 私は兼業農家の生まれで、稲刈りや柿の収穫など日常的に農作業を手伝っていました。だから、農業が人間の成長に与える効果や原体験の大切さについて、学問の対象になる前から肌で感じていました。
 1980年代に東京都練馬区の公立中学校に教員として勤務していたとき、生徒に田植えを体験させるため、修学旅行で東北地方に行きました。全国的に中学校が荒れていた時代です。出発する前、不良の生徒たちは「何で俺たちが泥の中に入って田植えしなくちゃいけないんだ?」と、ものすごいブーイング。でもね、岩手県の田んぼで作業をしているうちに、彼らのとげとげしかった表情が、穏やかに変わって、次第に笑顔が増えていくんですよ。作業の様子を地元のテレビ局が取材してくれたんですが、そのニュースを見ながら「俺が映っているぜ」なんてはしゃいでいましたね。自分を認めてもらうことのうれしさもあったんではないでしょうか。農家の方が送ってくれた米で、生徒のお母さんたちが、高校入試前に「合格おにぎり」を作ってくれました。こうした体験を通じて、生徒は本当に落ち着いていきました。以前はドアをしょっちゅう蹴るので、穴だらけになるほどだったのですが、うそのようにキレにくくなり、すっと収まりました。
 その後、都内で農業体験を取り入れる学校が増えていきました。今では体験するだけでなく、自分たちが育てた農産物や地元の農家が作ったものを給食に使用するといった取り組みも広がっています。農業や自然体験が子どもの成長に与える影響の大きさは、さまざまな場面で確認されています。「原体験」は基礎的な学力みたいなもの。これからの時代、知識を身に付けるだけではなく、知識を活用する力を養うことが教育にも求められています。大人になって子どものころに学んだ知識を使うとき、子ども時代のさまざまな体験が生きてくることを、特にお父さん、お母さんたちに知ってほしいと思います。

JAや農家は学校教育に積極的に参加を

 教育を充実させるには、地域住民の協力が大切です。日本一の学校給食で知られている北海道置戸おけと町の取り組みには感動しました。町内のどの世代も関わる地域ぐるみの活動は、他の自治体にとっても参考になると思います。フキの季節になれば給食センターを中心に関係者総出で収穫して長期保存できるように塩漬けにしますし、農家が届けてくれた農産物を子どもたちが調理することもあります。また、食器類は地元の木材から作っているそうです。
 JAの方たちには、どんどん学校現場に出向いてほしい。学習サポーターといって、保護者やボランティアが学校の活動をお手伝いしている事例もありますが、学校教育の支え手はまだまだ不足しています。日本の学校は、1クラス当たりの児童・生徒数が、経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で、最大規模です。先生だけではとてもひとりひとりに目配りしきれません。例えば、医師や救急救命士が人工呼吸の方法を指導するなど、その分野のプロが伝えることで子どもの学びはうんと深まりますよね。農業体験でも、農家やJA職員が指導してくれれば、本物の農業の魅力、苦労、大切さを伝えられるはずです。

大人になって勉強で学んだ知識を活用するときに、子ども時代の「原体験」が生きてきます。

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