私のオピニオン
三山秀昭

Hideaki Miyama
広島テレビ放送最高顧問

歴史的な「オバマ広島訪問」実現のためヒロシマとホワイトハウスを仲介した三山秀昭さん。全国紙記者として、ワシントン特派員をはじめ、政治部や地方を舞台に多くの農業の「現場」も取材してきました。シビアな“現実”と向き合ってきたからこそ分かる「JAの課題と可能性」を指摘していただきました。

暮らしてみてこそ“肌身”で感じた「ヒロシマの心」を、「オバマへの手紙」に込めてアメリカ政府に伝えました。

オバマ広島訪問に「裏方」として尽力

 2016年5月27日、暮れなずむ広島平和記念公園で、オバマ・アメリカ大統領(当時)が原爆慰霊碑に献花し、全ての戦争犠牲者を追悼し、慰霊しました。そして、あの17分間の文明論的スピーチ。ご自身が被爆者でありながら被爆死した12人の米兵捕虜の存在を丹念に調べ、アメリカの遺族にも伝え、原爆死没者名簿へ記帳するという地道な活動をされてきた森重昭さんとの感動的な抱擁シーンを覚えている読者も多いと思います。歴史的なオバマの広島訪問に一端ですが、私も陰ながら関わりました。著書のタイトルにもなった「オバマへの手紙」について、自己紹介も兼ねて話をしましょう。
 1982年から85年、読売新聞のワシントン特派員を務めました。ホワイトハウス、議会、国務省、ペンタゴン(国防総省)などを取材しつつ、地方の小さな町にも精力的に出掛けました。グラスルーツの声を知るため、政治都市・ワシントンではなく普通の市民の声の取材にこだわったのです。そこで、日本の都市の中で東京の次に認知されていたのが広島であることを知りました。多くの人は、ヒロシマに「アトミック・ボム(原爆)が落ちて、戦争が終わった」と認識しながらも、広島を「何となく気掛かりな街」と受け止めていました。ちなみに今も広島を訪れる外国人旅行客のトップは、大半の県のように中国人ではなくアメリカ人です。
 2011年、広島テレビの社長となり、広島の街に居を構え、暮らすようになりました。日常的に被爆者や被爆2世に取材し、「もはや原爆投下を恨まない、憎まない」という市民の「アメリカ感」を肌身で感じ、とても驚きました。反米感情がほとんどないのです。
 この「アメリカ人のヒロシマ感と広島のアメリカ感」をクロスさせれば、「何か」できそうだと、私の個人的体験から思い立ちました。そして、2014年、広島テレビのキャンペーンとして、「オバマへの手紙」を広く募集し、アクションを起こしました。14、15年と2度にわたってホワイトハウスを訪ね、国家安全保障会議(NSC)の高官と面談し、1,472人分の手紙を直接、届けました。1回目はオバマの広島訪問の際、被爆者代表として言葉を交わした坪井すなおさんの手紙が、2回目には森重昭さんの被爆米兵調査に関する私の長文のレポートが含まれていました。そこには原爆投下に対して謝罪を求めるのではなく、核なき世界、平和を願う「ヒロシマの心」が刻まれていました。「広島市民の心」がオバマを広島に招き寄せたのです。そして、あの「広島スピーチ※」が実現したのです。

※ 三山さんからオバマ前大統領の「広島スピーチ」の全文を読むことを勧めていただきました。「在日米国大使館HP」では、公式日本語訳を紹介しています(https://jp.usembassy.gov/ja/obama-remarks-hiroshima-memorial-ja/)。著書『オバマへの手紙』(文春新書)では「英文・日本語訳」の全文を収録しています。

強く印象に残った「日米農産物交渉」

 さて、本題である「農業」について話を進めましょう。私は富山県の稲作地帯に生まれ、育ちました。ワシントン時代も今も、朝食には、必ずご飯を2膳食べる「ご飯党」です。大学を出て記者になってからは、東京・大手町の読売本社と道路を挟んで隣にあった農協ビルの食堂によく通いました。ご飯がツヤツヤ、ピカピカしていて、うまかった。さすが「農協」だと思いました。
 記者としての初任地の千葉では首都圏の台所を支える農業を、北海道ではアメリカ並みの大型農業を取材しました。広島の農業は、寒冷と温暖の両方の特徴を抱えています。著書『広島じゃけぇ、「中国チャイナ」じゃないけぇ。』(南々社)にも書きましたが、同じ県域で「リンゴも取れて、ミカン(かんきつ類)も取れる」のは、広島ぐらいではないでしょうか。とても珍しいのに“灯台下暗し”で、あまり知られていません。
 私の農業との関わりの中で最も印象に残っている取材は、ワシントン駐在中の1983年から84年にかけての「日米農産物交渉」です。牛肉とオレンジの輸入自由化を巡るもので、中でも、84年の山村新治郎農林水産大臣の訪米によるレーガン政権との交渉は、大臣の帰国日程が何回も変更されるなど、まさにシナリオのない展開で、非常に厳しいもので、日本人として歯がゆい思いをしました。日本の農業界にとって、ワシントンは手厳しい場所であり、交渉を有利に進めるには、議会・上下両院の農業委員会(議員)、ロビイスト、農業者団体から情報を得る必要がありました。しかし、大使館を含めた当時の日本の情報収集の体制は外務省が中心で農業問題の取り組みは万全ではなかった。その教訓もあり、その後、85年、全中がワシントンに駐在員事務所を開設した際、私もオフィス探しなど、いろいろお手伝いさせていただきました。

「食料自給」は大事ですが、エネルギーを含めた
「総合的な安全保障」を考えるべきです。

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