私のオピニオン
國分功一郎

Koichiro Kokubun
哲学者、東京工業大学 教授

気難しいという一般的な「哲学者」のイメージとは、ずいぶん雰囲気が違う明るいキャラクターの國分功一郎さん。身の回りにある問題を基に社会を考える必要性を述べています。JAなどの「中間団体」の存在が民主主義が正常に機能することと大きくつながっていると指摘しています。「斬新な視点」でJAについて考えていただきました。

中間団体は民主主義が正常に機能する上で大きな役割を果たします。さまざまな団体が持ち寄った利害を調整するのが「健全な政治」です。

中間団体の衰退とグローバリゼーション

 今日は中間団体をテーマにお話しさせていただきますが、JAも中間団体の一つですね。個人と国家の間にある中間団体は今、衰退の危機にあります。そして、現代社会を理解するにはこの危機を理解することが重要です。少しずつ説明していきましょう。
 中間団体とは、もともとは、教会、ギルド、地域共同体など、前近代のヨーロッパで国家の統治を支えた組織を名指す言葉でした。ですが、今では広く、個人と国家の間に位置する組織という意味で用いられています。日本では、JAなどの業界団体、労働組合、職業団体、終身の雇用先の企業などが該当すると考えてよいでしょう。
 これらの組織は、所属する人たちの利害を代表し、主張します。つまり中間団体は構成員と、「これだけは譲れない」と思える価値観を共有する役割を担っていました。戦後の日本には、ヨーロッパのような階級社会はありませんでしたが、人々は何かしらの中間団体に帰属し、それが社会的な心のよりどころにもなっていました。
 しかし、近年、グローバリゼーションの進展によって、中間団体は衰退を余儀なくされています。グローバリゼーションの特徴は、中間団体を破壊し、個人を世界市場に直接対面させるところです。
 国境を越えて資本と労働力を自由に動かそうとするグローバル資本にとって、生産者、労働者、消費者の利害を代弁する中間団体は邪魔者でしかありません。ですから資本は政権と手を組み、「岩盤規制に保護された既得権益を甘受する前近代的な組織」という中間団体のイメージを作り出し、「規制緩和」の名の下にこれを解体しようとするわけです。大ざっぱに言えば「グローバリゼーション」と呼ばれる現象の下で起こっているのはそのようなことです。個人が保護を奪われ、むき出しにされている。
 これに情報化が拍車をかけています。インターネットを介して人々はこれまででは考えられない規模でつながり、活動することができるようになりました。これ自体は大変貴重なことです。またそうした個人が中間団体から離れていくこともある意味では当然でしょう。しかし、一時的につながった個人にできることには限界があります。例えば貿易自由化の問題では、JAのような生産者の利害を代表する団体でなければできないことがたくさんあります。
 さまざまな団体が利害を持ち寄り、それをぶつけ合いながらバランスを取っていくのが健全な政治であるという認識が定着していないことが以上の事態の根源にあります。そして、実のところ、権力を握っている人たちにとって、社会の内部に中間団体がないことは、国民を支配する上で極めて望ましい状態であることに注意せねばなりません。個人一人一人は流されやすく不安定な存在ですが、一つの利害関心によって結合した団体は安定的に権力を監視することができるからです。
 このような事態を目にしながら、私は近年、ドイツ出身でアメリカで活躍したハンナ・アレント(1906~1975年)という哲学者に強い関心を寄せるようになりました。アレントこそは民主主義において中間団体が果たす役割を強調していた哲学者だからです。学生時代から読み重ねてきてはいたのですが、ナチスドイツを分析したこの哲学者の思想を学ばなければ、今の社会は分からないという強い確信を抱くようになりました。

権力者に不都合な「部分社会」

 アレントはその著書『全体主義の起原』(みすず書房)で、階級社会の崩壊と大衆社会の出現こそが全体主義の成立の前提条件だったと言っています。「階級」はここでは人々の帰属先を指しています。アレントは、人々が帰属先を失うことで民主主義は崩壊し、全体主義が到来したと述べている。するとこの分析は、中間団体という帰属先を失った現代社会にも当てはまることになります。
 人々が帰属先を失うことがどうして民主主義の危機につながるのでしょうか。ここでキーになる言葉が「大衆社会」です。アレントは「大衆社会の大衆は、何事をもすぐに信じるが、同時に何事をも信じていない」と言っています。帰属先を失ってバラバラになった個人は、「これだけは譲れない」と思える価値観をなかなか得ることができません。ですから、次々と喧伝けんでんされる情報をすぐに信じてしまいます。しかし、それは何ら信念を持っていないからなのです。何も信じていないから何でも信じてしまう。
 アレントはこれを「軽信」と呼び、軽信と「冷笑主義(シニシズム)」の同居が大衆社会の特徴だと述べました。シニシズムとは、「そんなこと分かっていたよ」と何でもやり過ごしてしまう態度のことです。信念がないから、だまされたと分かっても平気なのです。
 昨年、官僚による公文書改ざんや、大阪市の学校法人への国有地売却を巡る疑獄事件が問題になりましたが、あのとき最も驚くべきであったのは、国民がほとんど怒りを示さなかったことです。政権が言うことをすぐに信じるし、その後でだまされていたと分かってもシニシズムでやり過ごす。アレントの分析がこれほどピッタリ当てはまる事例もそうないでしょう。そして政権もそれを見抜いているので、少しも焦ることがなかった。国民の側に「これだけは譲れない」という価値観がないことを政権は知っているのです。
 古代において僭主せんしゅ政治の要諦は、社会の内部に人々の帰属先となり得る中間団体のような「部分社会」をつくらずに、穂を切りそろえるかのように全ての人を平等に扱うことといわれていました。一見、平等は良いことのように思われますが、社会の中に中間団体のような部分社会がなければ、誰も権力者に立ち向かえなくなります。そこに現れるのは、権力者がうまく装飾したプロパガンダをすぐに信じてしまう「都合のいい国民」の社会です。

「譲れない価値観」を持つことは、権力者に対して常に脅威であり、けん制になります。そのためには「言葉の力」が必要になります。

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