私のオピニオン
隈 研吾

Kuma Kengo
建築家

建築は土の産物
土の力と建築を組み合わせ
日本の田舎はよみがえる

僕を支え続ける「幼少期の土の経験」

 僕は子供の頃から、庭で野菜や花を育てるのが大好きな、おとなしい少年であった。原因を作ったのは母方の祖父である。彼は東京の大井で医者を開業していたが、土いじりが大好きで、当時は農村であった横浜の大倉山の農家から土地を借りて、週末は、そこに建てた小さな小屋に暮らし、畑仕事にいそしんだのである。祖父はやがていよいよ東京がいやになって、大倉山に病院ごと引っ越し、その小屋が僕の両親の新居となり、僕が生まれ、僕はその祖父から、土いじりの手ほどきを受けて育ったのである。じじくさい変な子供といわれたが、種が実をつけ、花を咲かせるのが不思議であり、楽しくてしかたがなかったのである。
 1964年、小学校4年生で丹下健三さん設計の国立代々木体育館を見てショックを受け、建築家を志すことになった僕だが、この幼少期の土の経験は、僕の建築デザインのベースとなって、ずっと僕を支え続けているように感じる。
 大学で建築を勉強し始めた頃から、「建築を緑で消したい」と、ずっと考えていた。1970年代の当時、すでに日本の環境が危機にひんしていることは、皆が感じていた。地球温暖化という言葉すら使わなかったが、空気の汚染も、水の汚れも、すでにひどいことになっていた。にもかかわらず、建築家も建設業界も、コンクリートと鉄の巨大建築を作ることに相変わらず熱心で、僕は強い違和感を感じた。
 当時の僕の興味をいたのは、建築をまるごと緑化して、消してしまうような建築であった。こういう方向に建築は向かうべきだといっても、賛同してくれる友達はいなかった。

地産地消の「野菜建築」を作る

 こんな考えが理解されるようになったのは、1990年代の半ばからである。僕が自分の事務所を始めて5年後の1995年、バブル経済がはじけ、東京の仕事がすべてキャンセルされて、することがなくなった僕は、日本の地方をまわりはじめた。土への郷愁が、久しぶりに頭をもたげてきたのである。東京での仕事に追われて、日本の田舎のことを全然知らない自分に気付いたのである。田舎には、何かが眠っていそうな気がしたのである。
 まず瀬戸内海に浮かぶ大島の人達と縁ができて、島の山頂に、瀬戸内海一といわれる多島美を味わえる亀老山展望台をデザインした。展望台といっても、下から見ると、山にしか見えない。すべて緑化して、建築を消してしまったからである。
 次に縁ができたのは、高知の山奥で、冬は雪が大変な町、梼原ゆすはら町であった。ここは林業の盛んな町で、小さな建築の設計を続けて頼まれることになり、何から何まで木で作ろうと心に決めて、木の使い方をどんどん覚えていった。木もまた野菜のようなものであることも学んだ。東京にいると、外国産の木ばかりを使うので、木が工業製品のような錯覚に陥ってしまう。しかし、梼原のような場所にいると、その場所の土から生えて、その場所の空気を吸い、光を浴びて育つ様子がわかるので、木が野菜に見えてくる。木だけでなくて、和紙も、竹も、そこでできたものは、皆野菜に見えてくる。地産地消の「野菜建築」を作ることの醍醐味だいごみを覚えた。バブルがはじけてくれて、本当によかったと感じた。

土から生まれた「自産自消」の建築

地元の杉材をイモの繊維のイメージで並べた茨城県境町のカフェは「野菜建築」のひとつ

 建築が土の産物に思えてくると、建築の材料も、建築のまわりや建築自体に植える植物も、そして建築の中に存在する物――たとえば、建築の中で食べる食物や、そこで売買されている物も、みんなそこの土から生えたものがいいように思えてきた。そうすることで、建築全体が土から生え、植物のように感じられるのではないだろうか。それが21世紀の建築の究極の目標のように、感じられる。
 最近育てている「野菜建築」のひとつに、富山の立山町にある酒蔵がある。フランスでシャンパンを作ってきた「シャンパンの神様」と呼ばれるリシャール・ジェフロワという友達が、シャンパンを卒業して、日本の田舎で日本酒を作りたいというので、手伝うことにした。僕の事務所の担当者は、コロナのこともあって立山に引っ越し、建物に使う和紙を、自分でき始めてしまった。職人から教わって、色々な草や土を混ぜ、見よう見まねで始めた手漉きだが、絶妙の風合いの、土臭いものができた。地産地消というより、一歩進んで、「自産自消」に辿たどり着いた。
 もうひとつのおもしろい例は、茨城県の境町との関わりである。特産の野菜や肉を食べさせたり売ったりする小さな建築を、僕のデザインでどんどん作り、土とデザインの新しい関係を作りたいというオファーがあった。始めてみたら、普通の田舎だと思っていた場所に、ユニークでおいしい宝がたくさん眠っていたので驚いた。地元の名産の梅山豚を食べさせ、さしま茶を飲ませるレストランの内装は、茶を入れていたブリキ缶で作り、外装はお茶の木で緑化した。乾燥イモを食べさせるカフェの内装は、イモを干すメッシュで作り、外装は、地元の杉材を、イモの繊維のイメージで並べてみた。
 こんな風にして、日本の土の力とデザインを組み合わせて、日本の田舎に、どんどん力がよみがえる日を夢見ている。

くま・けんご

1954年横浜市生まれ。栄光学園中学、高校を卒業後、東京大学工学部建築学科を経て、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。90年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。慶應大学や東京大学で教授を務め、2020年から東京大学特別教授・名誉教授。地方での活動にも力を入れており、高知県梼原町、北海道東川町などのまちづくりに携わっている。

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