私のオピニオン
磯田 道史

Isoda Michifumi
国際日本文化研究センター教授

歴史家がみた日本農業の九変化

東アジア1万年の農業史を振り返る
「モノ・ガタリを与える産業」に

「いま、日本農業は転換期である」。ずっと言われてきた言葉だ。ところが、これから始まる変化は、どうやら本物らしい。数百年に一回の変化だろう。歴史家の直感である。21世紀中頃の日本農業は、過去1万年で、9度目の大きな転換期に入る。
 第一の日本農業の転換は縄文時代だろう。縄文以前にも農業はあった。一般書では小畑弘己『タネをまく縄文人』が最新の縄文農耕の知見をまとめている。クリなど実のなる樹木をムラの近くに植える。実の大きなヤマブドウを選んで育てる。石器で畑を耕し、マメ、ヤマノイモ、サトイモを栽培して、デンプン質の栄養を得る。イネの栽培だって、やっていた。近年の発掘成果からすると、農耕がある点では、縄文も弥生も変わらない。

イネ栽培が「クニ」と「信仰」を普及
「太陽をる農耕王国システム」

 第二の転換は、弥生時代だ。弥生が縄文と大きく変わった点はイネを栽培するのに「巨大インフラ」を前提にし始めたことだ。大量の木材であぜをかためた圃場ほじょうや長い用水路で、イネを作り始めた。これは家族では無理だ。「ムラ」「クニ」などの結束を固く信じる者たちが、首長や王のもとでやる農業である。当時の列島人は砂鉄からは鉄が作れない。イネ栽培に不可欠な木材加工には鉄が要る。朝鮮半島から鉄のインゴットを輸入せねばならないから、日本列島では弥生から古墳時代にかけて、王の力が強くなりがちであった。しかも、イネを巨大インフラで栽培するには失敗できない。植え付け・収穫の時期が肝心である。太陽をみて農事暦を知り、鉄で木を人で水を治めなくては、おいしいイネは食べられないのだから、首長や王をあがめる信仰が始まった。
 畑作地帯だが、中国の華北では、約四千数百年前に太陽の動きを測り、一年を366日と定めた帝王=ぎょうが現れたとされる(司馬遷『史記』)。近年、洛陽らくようの北百数十キロで、堯の都・平陽と目される陶寺遺跡が発見された。13個の柱で太陽を観測し暦をみた観象台も発掘された(解希恭編『襄汾陶寺遺址じょうふんとうじいし研究』)。この「太陽を観る農耕王国システム」は、東アジア一帯に数千年かけて徐々に広がったと考えられる。陶寺遺跡では、すでにりゅうを崇めていたふしがある。龍は流水のシンボルでもある。農耕に大切な流水を信仰するのは、中国南部の稲作文明も同じで、良渚りょうしょ文化(杭州市)でも流水のような弧と直線を石に刻んだ遺物が出土する。この文化については中村慎一・劉斌編『河姆渡かぼとと良渚 中国稲作文明の起源』が詳しい。弥生後期になると、日本でも直弧文ちょっこもんが各地でみられる。イネ栽培が太陽と流水の信仰そしてクニを、普及させていった。

九州北部に「イネの女王・王」が誕生
巨大インフラでイネを栽培

 日本には約二千年前にまず九州北部に王(女王)とクニが現れた。なかでも今の糸島市の「伊都国いとこく」はクニの体裁をよく整えていた。同市の三雲・井原いわら遺跡からは大陸の楽浪らくろう郡系土器が大量に出土した(糸島市教委『三雲・井原遺跡』)。近くの平原ひらばる王墓は伊都国の女王墓である。ここから出土した「大型内行花文鏡ないこうかもんきょう」は三種の神器の「八咫鏡やたのかがみ」に型式が最も近いという説がある。女王が銅鏡、勾玉まがたまを大量保有して祭祀さいしを行っていたらしい(前原市教委『平原遺跡』)。「イネの女王・王」の誕生である。クニと王は北部九州から列島の東へ普及し、吉備(岡山県)、出雲(島根県)、大和(奈良県)に有力なクニができた。そして大和の王が、これらのクニの連合体をたばね始め、王→大王→天皇と展開し、飛鳥・奈良時代には超絶した地位に登った。巨大インフラでのイネ栽培が、クニを発生させ、成長させていった。太陽と水の王権を信じて、巨大インフラでイネを栽培する。しかし、弥生稲作は同一圃場内でも品種が、ばらばらであり、石包丁で穂首を稲刈りする時、イネは倒れて地べたをっていた、との説もある(寺沢薫『王権誕生』)。
 古代以前の水田は安定的でない。風水害が日常で肥料は無いか少ない。平安期でも耕地の3~4割は荒れていた。クニや律令りつりょう国家が農具・工具を提供し、常に荒地を再開墾しながらの稲作である。古墳時代になると、牛馬が列島に入ってくるが、この状況は平安前期ぐらいまで尾を引いているように思われる。最近、日本古代の農業生産力の分析が進んだ。高島正憲の推計によれば西暦700年頃~1150年頃の古代450年間で耕地面積は1.6~2倍に増加し、非耕作地(休耕地)がある前提では、一人当たりの農業生産量は1.04→1.53石に増加したとされる(高島正憲『経済成長の日本史』2017年)。

宋から知識と技術を導入
灌漑かんがい・施肥の高度な農業が広まる

 第三の転換期は平安後期だろう。西暦950~1150年に日本人口は500万→590万人に増えたとされる。これには大陸の「宋」の影響も考えねばなるまい。当時、宋は一人当たりGDPが世界最高水準の地域になっていた。宋:日本=10:6ほどの一人当たりGDPの差があったと推計されている(A・マディソン『世界経済史概観』)。宋では製鉄量が増え、灌漑工事が進んだ。さらには農書が出版され、農業技術が文字化され広められた。日本にも宋の出版物は入ってきた。中国農書『斉民要術せいみんようじゅつ』が滋賀県の百済寺に備えられ、それを後嵯峨天皇の侍医が写し、それをまた鎌倉武士(金沢実時)が写している(福島金治「鎌倉中期の京・鎌倉における漢籍受容者群」)。まだ宋・元の段階では、肥料の量は実態としては少ない。しかし、宋の『陳旉ちんふ農書』のように、地力を肥料で高め、追肥までやって、収穫を高める思想が、宋代にはっきり出て普及が始まった。日本でも宋の影響をうけて、鉄器の増加、灌漑の整備、栽培知識の向上があった可能性がある。古代までは人間労働力の編成が農業生産量を左右した。しかし、この中世あたりから、労働編成に加え、栽培法の知識・技術も、農業生産に大きく影響する段階に入っていった。

大唐米だいとうまい」の普及で農業生産が増大
低湿田でも栽培、地理条件を克服

 第四の転換期は南北朝~室町時代である。西暦1280~1450年に、一人当たり農業生産は1.3石で変わらなかったが、日本人口は595万→1,005万人に大きく増えたとの推計がある(高島前掲書)。農業生産が約4割増しになった理由は一つではない。「大唐米」といって、低湿地など不安定な水田で栽培できるイネの品種が大陸から入ってきた。品種多様化などの「農学的適応」が影響しているとの説は有力である(斎藤修『比較史の遠近法』)。中世前半までは大河川が氾濫しない地理条件のよい場所が、稲作の中心であった。しかし、不安定な水田に強いイネ品種群「大唐米」が普及したために、下流の氾濫原にまで、イネ栽培が拡大し始めた。室町時代には、多収穫で、もろもろ耐性のあるイネの品種への関心が高まった。好条件の古地では、しっかり肥料を入れて二毛作なども行われたであろう。

農民に「イエ意識」が浸透
勤勉に働き、字を覚え、イエを興した

 第五の転換期は室町後期から江戸前期(17世紀)である。井堰いせき溜池ためいけがこの時期に激増し、新田開発が進んだ。「大開拓時代」(菊地利夫『新田開発』)とよばれる。日本の人口は1450~1721年に、1,005万→3,129万人と3倍以上に増えた(高島前掲書)。戦国・近世大名の土木工事、民間の開発による耕地面積の増大がまずあった。さらに領民の大多数が結婚する「皆婚社会化」が起きた。それまでは、大百姓が独身の男女を使役していたが、農民の多くが結婚するようになり、イエとイエ意識を持った。それで、17世紀に婚姻率・出生率・人口増加率のトリプル上昇が起き、耕地面積の増大と人口増加が並行して進んだ。近世農民のイエは「生きかわり死にかわりして打つ田かな」と幕末生まれの俳人・村上鬼城きじょうが詠んだように、田畑を代々世襲するのが基本で、長男子が家産を単独相続し、先祖の墓を守った。男子がなければ婿養子か夫婦養子を取ってイエ永続を図った。イエを持った農民は「イエを興す」ため、子女を熱心に教育した。東アジア中、日本農民の識字率は異様に高くなった。

人口抑制と税制で所得水準が向上
幕末の農民は国際的にも豊かだった

 第六の転換期は18~19世紀である。耕地開発が当時の技術限界に達した。1707年の宝永の地震津波で低地開発の限界点がみえた。牛馬を放ち、草肥やしを採る入会牧草地も足りなくなった。すると、ムラは「百姓株数」を定め、村内のイエ数を制限するようになった。百姓株が得られない者にも道はあった。男女とも都市・農村に奉公に出るようになり、結婚年齢が上がって人口増加が鈍くなった(速水融『歴史人口学の世界』)。農業の発展方向は金肥など購入肥料を使って、田畑の作付け回数を増やし、高く売れる綿や菜種など消費作物を作って稼ぐ方向にむかった。江戸幕府や諸藩は表作のコメや麦から年貢を取るシステムであった。裏作や商品作物からの徴税は百姓一揆など大きな抵抗をうけるから、農民は商品作物を作れば、手元に富が残りやすかった。日本の農民は豊かになり、一人当たり実質GDPで中国を抜いた。中国は人口増加が経済成長を追い越し、一人当たりでは日本より所得が低くなった。A・マディソン『世界経済の成長史1820~1992年』の推計では、1820年、日本704ドルに対し、中国531ドル(1990年GKドル換算)である。

「近代農業の進化」の担い手は「家族」

 第七の転換期は明治維新からの近代化過程である。東アジアで、国民識字率が最も高く、庶民が豊かな国がすばやく工業化したのは当然である。品種改良、農業土木の発達、農薬・化学肥料の使用、化石燃料の使用による農業機械の飛躍的な進化が起きた。しかし、農業は個人でも会社でもムラでもなく「農家」の家族労働力が担う点は以前と変わらなかった。農家で読まれた雑誌も『農業者の光』ではなく『家の光』(大正14=1925年発刊)であった。1960年ぐらいまで、この「近代農業の進化」の時代が続いた。

環境保全や文化への貢献が存在価値に

 第八の転換期は高度経済成長から現代までである。工業そしてサービス業が中心になり、農業の担い手が減った。農家の人手不足を機械化やハイテク技術で補う試みがなされた時代である。しかし、グローバル化のなかで、日本農業は多くの部門が価格面では競争力を失い、農産物の高品質化・安全性のアピールなどで生き残りが図られた。また、農業が持つ環境保全や文化・社会的役割への再評価が始まり、農業と観光・飲食などサービス業との結合が生き残りの道として模索され始めた段階である。

」と「脳」を持つ農業機械の登場
自動化で農業労働の概念が変わる

 そして、第九の転換期がやって来ようとしている。人工知能(AI)時代の農業である。インターネットでつながった「眼を持つ機械」が登場してくる(松尾豊『人工知能は人間を超えるか』)。人間以外の者も農業を担い、あらゆる場所から農作業の指示が可能な時代である。これまでの農業機械はトラクターや選別機のように、温湿度計センサーや触覚はあっても、基本的に「眼」がなかった。脳(AI)もなかった。しかし、これからは人工知能搭載だからイチゴの収穫どころか、人間が行う農作業はほぼ自動で行えるようになる。しかも、インターネットで接続され、ハワイのビーチからでも紀伊山地の奥地にある圃場の栽培管理ができる。逆も可能で、紀伊山地に住みながらハワイの農地の作物を栽培可能になるだろう。

食物カロリー入手だけの農業は終焉しゅうえん
人のメンタルをケアする産業に進化

 農業労働も概念が変わるだろう。手作業の農業が珍しくなると、お金を払ってでも、農作業をしたい人も現れる。娯楽・健康目的で、楽しむ人口が増えるだろう。農作業が苦役(コスト)でなく、一部は販売可能な資源になることだってありえる。農業の機械化・自動化・娯楽産業化が進む可能性が高い。自動運転やドローンの発達で農業流通は激変する。それを使って、思いもよらぬ産直商売が生まれるかもしれない。高級な産直商売、オーダー・メード化された農業流通は今後、必ず生じる。歴史家の目からみれば、人類史上、とくに日本では農業をモノ(食物カロリー)入手の目的「だけ」で行っていた時代は終末に近づいている。
 こう書くと、世界人口は100億人あたりまで増える予測があり、食料カロリーは必要ではないか、との意見もあろう。ただ、日本の条件は考えておかねばならない。日本の国内人口は急減中である。さらに日本ではカロリー入手目的だけの農業は難しい森林山地の多い島国である。客観的にみて、世界にある大陸の大農業国が土地や資源に恵まれており、食料カロリーの入手農業を新技術で展開するのには有利であり、日本は競争条件が不利である。
 それでも、今後、日本の農業が世界のカロリー供給問題の解決に貢献する方向に「変化」すればよいが、狭い国土の高いコスト体質の農業である。カロリー入手や食料自給は依然として重要である。しかし、カロリー「だけ」ではなくなる点が九番目の変化の「特徴」である。
 食料カロリーが重要でなくなるのではなく、それ「だけ」ではなくなる変化が顕著になるのであり、この点は誤解ないよう願いたい。
 日本農業はハイテクと結びついて、モノ+ストーリーで構成されるものになるだろうし、ならなければ、グローバル化で他国の輸入農産物に押されて衰退してしまうだろう。人類は自然への帰巣本能を持つ。神仏に祈って祭りをやり、土地のものを食べる、という原初的欲求は、文明が発達してもホモサピエンスから容易には失われない。

 大和撫子なでしこは七変化だが、日本農業は、これから「九変化」目に入る。歴史家として、東アジア1万年の農業史を振り返るとき、21世紀中頃以降の農業は自動化・機械化のなかで大きく変わる。人間のメンタルをケアしてくれる「モノ・ガタリを与える産業」に、農業が進化していく可能性すらある。

いそだ・みちふみ

1970年、岡山県生まれ。2002年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了、博士(史学)。03年、『武士の家計簿』がベストセラー、後に映画化。14年、静岡文化芸術大学教授に就任、地震・津波の古文書を研究し『天災から日本史を読みなおす』で第63回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。16年から国際日本文化研究センターに移り、21年、教授に就任。歴史家の視点で命を救う情報提供を試み、コロナ禍の20年、『感染症の日本史』を上梓じょうしした。古文書、史料を読み込み、社会経済史的な知見を生かして、歴史上の人物の精神を再現する仕事を続けている。現在、読売新聞に「古今をちこち」を連載、NHKBS『英雄たちの選択』の司会を務めている。

1990年GKドル換算 1990年時点の米ドルの購買力を基準にした国際ドル換算。

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